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北海道 命名から150年

2018(平成30)年に、本道が「北海道」と命名されてから150年目の節目を迎えます。

本道はかつて「蝦夷地」と呼ばれていましたが、1869(明治2)年8月15日に太政官布告によって「北海道」と命名されました。

松浦武四郎

北海道の
名付け親
松浦武四郎

「北海道の名付け親」と言われているのが
松浦武四郎という人物です。

武四郎は、江戸時代の終わりから
明治にかけて活躍した探検家で、
6度に渡る蝦夷地(北海道)の探査を通じて
アイヌの人々とも交流を深め、
蝦夷地の詳細な記録を数多く残しました。

また、アイヌの人々が蝦夷地で
安心して暮らしていけるようにしたいという
強い思いを持ち、
行動した人でもあります。

蝦夷地のことに詳しい第一人者として
明治政府の一員となり、1869(明治2)年7月17日、
明治政府に対し、蝦夷地に代わる新たな名称として
「北海道」のもととなった
「北加伊道」を含む6案を提案しました。

写真提供:松浦武四郎記念館

松浦武四郎の生涯をたどる

江戸時代の終わりから明治にかけて活躍した探検家
松浦武四郎の生涯をたどります

初めての旅は16歳。
書き置き一つで家を出た。

武四郎は1818(文化15)年、伊勢国一志郡須川村
(現在の三重県松阪市小野江町)で生まれました。

今も残る生家は、江戸時代に伊勢神宮を訪れる
旅人たちが行き交った伊勢参宮街道沿いにあります。

そのような環境で育った武四郎は、
幼いころから旅へ強い憧れを
抱くようになったのかもしれません。

16歳で突然一通の手紙を残して
旅に出たのを皮切りに
(家出同然だったため、すぐに家人に連れ戻されました)、

17歳から全国を巡る旅に出ます。
21~26歳までは長崎で僧侶になるという、
少し変わった体験の持ち主でもあります。

アイヌの人々と寝食をともに。
計6度に渡って蝦夷地を探査。

武四郎が初めて蝦夷地に渡ったのは
1845(弘化2)年、28歳のときでした。

長崎でロシアが勢力を広げるために
蝦夷地を狙っていることを知り、
日本の危機を感じた武四郎は、自ら蝦夷地を調べ、
その様子を多くの人に伝えようと決意。
以降、1858年までの間に計6回探査に訪れました。

3回目までは一探検家として蝦夷地を探査し、
多くの報告書や地図をまとめました。

それを評価した江戸幕府は武四郎を
雇い入れ、4回目以降は幕府の命を受け、
探査の任務にあたりました。

その際、武四郎は蝦夷地で暮らすアイヌの
人々の協力を得て、寝食をともにする中で
アイヌ文化に触れ、
その文化や
生活を紹介することにも力を注ぎました。

「蝦夷地」から「北海道」へ。
その名に込められた思い。

時代は江戸から明治へ移り変わり、
武四郎は、蝦夷地に詳しい第一人者として
明治政府の一員となり、
開拓使の
役人として、1869(明治2)年7月17日に蝦夷地に
代わる名称の提案を明治政府へ行いました。

その候補にあがったのが「北加伊道」「日高見道」
「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」
の6案でした。

最終的に「北加伊道」の「加伊」が「海」となって、
同年8月15日に現在の「北海道」と命名されました。

武四郎は幕末に出版した「天塩日誌」の中で、
天塩川流域を調査した際に出会った
アイヌの長老アエトモから、
「カイという言葉には、
この地で生まれたものという意味がある」と
教えられたと記しており、「北加伊道」に
その意味を込めたと言われています。

これには、武四郎の、アイヌの人々への思いも
込められているのかもしれません。

また、武四郎はアイヌ語の地名に基づき、
郡名・国名(後の支庁、現在の総合振興局と
振興局)の選定にもかかわっています。

晩年まで続いた、旅への情熱。

武四郎は、江戸時代にアイヌの人々を苦しめていた
「場所請負制度」(特権的な商人が松前藩や
幕府から蝦夷地各場所の経営を請け負った制度)
の廃止を強く訴えていましたが、
それはなかなか実現しませんでした。

開拓使を批判した武四郎は、1870(明治3)年、
開拓判官の職を辞し、長年の功績により
与えられた従五位も返上しました。

晩年は、奈良県と三重県の県境にある大台ヶ原に
3年連続で登って調査を行ったり、
70歳で富士山へ登頂するなど、
1888(明治21)年に71歳で亡くなるまで、
旅への情熱は衰えることはありませんでした。

年表

1818(文化15)年 松浦時春(桂介)の四男として誕生
1824(文政7)年 近くの寺で読み書きを習う
1830(天保元)年 津藩の儒学者平松楽斎の私塾に入門する
1833(天保4)年 手紙を残して家を出る
(江戸で見つかり1か月半で連れ戻される)
1834(天保5)年 全国を巡る旅に出る
1838(天保9)年 長崎で大病を患い、出家して僧侶となる(~1844年)
1842(天保13)年 対馬に渡り、朝鮮半島に渡りたい願望を抱くも断念
長崎に滞在する
1843(天保14)年 ロシアの蝦夷地への勢力拡大の危機を知り、
蝦夷地探査を決意
郷里に戻って伊勢神宮へ参拝、亡き両親の墓に参る
1844(弘化元)年 青森から蝦夷地を目指すが、
松前藩の取り締まりが厳しく断念
1845(弘化2)年 初めて蝦夷地に渡り、第1回蝦夷地探査を行う
函館、森、有珠、室蘭、襟裳、釧路、厚岸、
知床、根室などを巡る
1846(弘化3)年 第2回蝦夷地探査を行う
江差、宗谷、樺太、紋別、知床、石狩、
千歳などを巡る
1849(嘉永2)年 第3回蝦夷地探査を行う
函館から国後島、択捉島へ渡る
1853(嘉永6)年 吉田松陰と海防問題について語り合う
1854(安政元)年 宇和島藩の依頼で下田にて
ペリー一行の様子を調査する
1855(安政2)年 江戸幕府から蝦夷地御用御雇入の命を受ける
1856(安政3)年 第4回蝦夷地探査を行う
函館、宗谷、樺太、根室、様似、有珠などを巡る
1857(安政4)年 第5回蝦夷地探査を行う
函館、石狩、上川、天塩などを巡る
1858(安政5)年 第6回蝦夷地探査を行う
函館、石狩、宗谷、北見、十勝、阿寒、
日高などを巡る
1868(慶応4/明治元)年 明治政府から箱館府判官事を命じられる
1869(明治2)年 6月、明治政府から蝦夷開拓御用掛を命じられる
7月17日、明治政府へ蝦夷地に代わる名称として「北加伊道」を含む6案を提案
道名のほかにも、郡名、国名の選定にかかわる
8月、開拓判官を拝命
8月15日、太政官布告によって「北海道」と命名される
叙従五位
1870(明治3)年 開拓判官を辞職
従五位も返上する
1873(明治6)年 岩倉具視邸内の長屋から東京神田五軒町へ引っ越す
この頃、毎月1回、尚古会という
古物展覧会を開催する
1875(明治8)年 京都北野天満宮へ大神鏡を奉納する
1879(明治12)年 妻と京都、吉野を周遊する
1880(明治13)年 吉野から熊野までの霊場を巡る
大峯奥駈修行を果たす
1881(明治14)年 関西、九州を巡る
1882(明治15)年 萩で吉田松陰の墓参をし、九州を巡る
1883(明治16)年 熊本、宮崎を周遊する
1884(明治17)年 高野山の骨堂に抜けた髪や歯を納め、
近畿地方を巡る
1885(明治18)年 第2回大台ケ原探査を行う
1886(明治19)年 第2回大台ケ原探査を行う
1887(明治20)年 第3回大台ケ原探査を行う
東海、近畿、四国、山陽、九州を巡る
富士山へ登る
1888(明治21)年 叙従五位
2月10日、東京神田五軒町の自宅にて死去、浅草称福寺の墓所に眠る
※現在は東京染井墓地へ移動
※翌1889(明治22)年、大台ヶ原へ追悼碑(分骨碑)が建立される